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【ネタバレなし】つまらない?映画「首」北野武・最新作(あらすじ・感想・評価)

この記事では、2023年11月23日に公開された北野武監督最新作「首」について書きます。

最初にお断りしておきますが、この記事のスタンスは本作品に対する”否”の評価の立場を取っています。有体に言うと、本作品に”つまらない”という感想を持ったという話です(ここからは、この映画に関する客観的な理解と、この作品に対する主観的な感想を書いていきます)。

というのも、筆者は公開初日に劇場(IMAX)に足を運び本作を鑑賞しましたが、正直”つまらない”と感じてしまいました(非常に残念ですが、これが率直な感想…)。ところが、X(旧Twitter)を見ていると、賛否双方の意見が確認でき、かつ体感的には8:2ぐらいの割合で”賛”が多く、絶賛している方も少なくないです。

そこで、本作を劇場で観るかどうかや、公開から数か月後にBlu-rayを購買するか否かに迷われている方向けに、”否”の側の目線もご提供し、より多面的な評価を下せる状況を作り出すべく、本記事を書いてみる次第です。

目次

概要 (ネタバレなし)

本作品の位置づけ

「首」は2023年11月23日に公開された戦国時代劇映画。北野武が脚本・監督・編集を担当し、”ビートたけし”名義で主演(羽柴秀吉役)も務めている。北野武の19本目の監督作品であり、2023年現在最新作。前作が2015年の「龍三と七人の子分たち」であることから、所属事務所「T.Nゴン」を設立して以降初の作品ということになる。

原作小説「首」との違い

本作品には原作小説が存在する。その名も「首」で、著者は北野武本人である。すなわち、映画「首」は監督自らの原作小説を映画化した格好になっている。

小説版「首」は、主人公に曽呂利新左衛門(映画版では木村祐一が演じる)を置き、播磨国出身の農民、難波茂助(映画版では中村獅童が演じる)と共に、彼らの目線で織田家がどういった経過を経て本能寺の変に向かっていくかが描かれている。

一方で映画版「首」は、主人公はあくまでもビートたけしが演じる羽柴秀吉である。劇中では上述の曽呂利新左衛門と難波茂助の主観も織り交ぜられるので、織田家騒動を内(秀吉・光秀目線)と外(新左衛門・茂助目線)との両方から眺める描写があるものの、映画は秀吉目線を軸にストーリー展開されて行く。

製作費

本作品の上映時間は131分で、標準より若干長めの尺となっている。製作費は15億円と報じられており、邦画としては比較的大金が投じられている。興行的な成功を収めるかにも注目が集まるところである。

あらすじ (冒頭のみ)

物語は天正七年(1579年)から始まる。

織田家の本拠地は、この年の5月に完成した近江国の安土城となり、そこでは”お館様”こと織田信長(加瀬亮)の下に、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉(ビートたけし)、明智光秀(西島秀俊)らの重臣が馳せ参じている。

この日の議題は織田家を離反した荒木村重(遠藤憲一)への対処についてである。村重は、前年の1578年に織田家に対して突如造反し、統治を任されていた摂津国の有岡城で挙兵した。有岡城は、織田軍の攻撃によって落城したものの、荒木村重はこの包囲網を脱して行方をくらましていたため、この捜索・捕縛の任を誰が負うかに注目が集まった。

結論は、横暴独善的な支配を続ける信長の意向で最終決定され、明智光秀がその任を負うことになる。ところが、光秀と村重は元々昵懇の仲であったこともあり、この責務をやり遂げないと、村重造反の黒幕は光秀であるというあらぬ嫌疑が掛けられるいわく付きの命令となった。よって、光秀にとっては汚名をそそぐための任務という過剰なプレッシャーが掛かって行く。

そもそも信長は、嫡男信忠は愚鈍な息子であると公言することを憚らず、織田家の家督は血縁に関係なく最も功績を上げた者に譲ると宣言することで、常日頃から家臣たちの立身出世欲を異様なまでに激しく煽る動機付けを行っていた。

こうした状況の中で、光秀に対して一定の同情を示しつつ、冷静に状況を傍観する秀吉。特に農民出身の秀吉にとって、信長 – 光秀 – 村重の三者の間に感じられる、武士特有の畏敬・愛憎の情念は理解しがたいものであった。

元々甲賀の忍者であったが、今は足抜けし、諸国を旅する曽呂利新左衛門(木村祐一)は、偶然にも逃亡中の荒木村重を捕らえる機会に恵まれる。

ある日、戦国の乱世のおいて裏のフィクサー的な力を持つ千利休の庵で、滝川一益、丹羽長秀、明智光秀が茶の湯を嗜んでいると、上席の一益、長秀は、”荒木村重がこのまま捕まらないと、光秀への疑惑が深まる”と光秀に揺さぶりを掛ける。

この小規模な茶会が終わり、一益、長秀、光秀が庵を去ろうとすると、光秀のみが利休に呼び止められ”贈り物を進呈したい”と申し出られる。中庭の建物の物陰でその贈り物を見ると、それは何と捉えられた荒木村重であった。利休曰く、村重の生殺は光秀の一存で決めて良いと言う。

果たして、明智光秀は荒木村重をどのように処分するのだろうか?そして、信長公にはその結果をどのように報告するのだろうか?造反者村重の捕縛をキッカケに、織田家に新たな不穏な動きが生じ始める。

見どころ (ネタバレなし)

本作品の見どころを書いてみたいと思います。

見どころをと言いつつ、冒頭に宣言した様に否定的な意見も織り交ぜることになります。ご容赦ください。ただし、ネタバレはしませんし、見どころは客観的に書くので、予習情報として安心して読んでください。

伝記物大河ドラマではなくヒューマンドラマ

本作品は、伝記物的な大河ドラマではなく、あくまでもヒューマンドラマである点が大きな見どころだと思います。端的に言うと、物語として掘り下げたい重要人物に的を絞って、その感情と関係性を描いた人間ドラマだということです。

なお、この映画は史実を知らずとも楽しめますが、ある程度歴史的背景を押さえておいた方がよりストーリーが飲み込み易くなると思うので、そこも併せて書いてみます。

映画が始まる1579年(天正七年)は、織田信長にとって、1570年代に続いた諸国の大名たちが連携して攻撃を繰り返してくる、いわゆる”信長包囲網”をある程度脱し、畿内平定への道筋が大分見えてきた時期でした。

とは言え、1)京都における朝廷との調整、2)丹波・丹後経営(明智光秀)、3)中国地方への進出(羽柴秀吉)、4)四国方面への橋頭保模索、5)北陸方面の版図拡大(柴田勝家)、6)東海・甲州における武田軍との対峙(徳川家康)と、実は裏では戦略的に4つも5つも同時に正面作戦を展開しており、この辺りの説明は映画では一切割愛されています。

特に荒木村重が任されていた摂津国では、石山本願寺との数年に渡る戦争もまだ終結する前であり、この辺りの描写もありません。

また、1578年に村重が離反する前にも、松永久秀(1577年)、別所長治(1578年)の謀反は起きており、突如として信長に反旗を翻したのは荒木村重ただ一人という訳ではありませんでした。

このように、元より大河ドラマ的に歴史の全体像を描くことが作品の主旨ではなく、男性しかいない閉じた社会の愛憎劇を、該当する人物にだけフォーカスを当てて作ったヒューマンドラマなんだと、十分に認識しておいた方が楽しめると思います。

アウトレイジ的群像劇ではない

巷間で良く言及されていることですが、本作品は群像劇ではありません。特に北野監督の”アウトレイジ・シリーズ”を連想して、様々は個性的なキャラクターが、それぞれの私利私欲に基づいて”同時多発的”に悪行を繰り返す、戦国時代版アウトレイジだと想像する向きもありますが、「首」は群像劇ではありません。

本作品は上述のように、限られた主要キャラクターに焦点を当て、その心情と変化、状況に応じた打算、そしてそれらに伴う行動の変容を追って行くのが、その正体です。よって、こうした理解を前提にして、限定された主人公たちの関わり合いを冒頭から目で追って行く方が、序盤から全開でこの作品を楽しめると思います。

皮肉に満ちた壮大なコントである

これも盛んに議論されていることですが、本作品は”皮肉に満ちた壮大なコント”と断じて良いと思います。

戦国大名は、後の時代(例えば江戸時代)の施政者により、武家政権の存在意義を正当化するために、大義や正統性が後付けされて美化され過ぎている。少なくとも織田信長が君臨した1580年前後の日本は、信長を頂点としたグロテスクな社会に他ならず、一国一城の主から農民まで、誰も彼もが損得勘定に基づき節操なく行動する輩ばかり。

そんな彼らの息遣いを、陰惨な映像にブラックジョークを交えて描き、戦国時代の再定義を試みる壮大なコント、それが「首」と捉えるのが正しい向き合い方だと思います。

何がつまらない?

では、この作品の何がつまらないか?筆者個人は何をつまらないと感じたのか?

ここまで3つの見どころを書きました。これらをお読みになると、実に面白そうじゃない?斬新じゃない?とお感じになるかも知れません。そこは個人の感性にお任せします。

筆者が直感的に見過ごせなかったのは、一言で言うとその”コント”の質が悪かった点です。頻繁に会話のテンポが滞留し、やり取りがチグハグで、作品全体との整合性が取れていない点です。

どういうことかと言うと、個々の役者さんの演技を単独で切り離して拝見すると、それぞれ素晴らしく、上手い下手で言えば皆さん上手かったです。しかし、その演技をストーリー全体の流れに当てはめたり、他の演者さんとの掛け合いとして眺めると、一部の演技が大げさで上滑りしていたり、会話の掛け合いの間が悪く素人芸に見えたり・・・。

整理すると、戦国時代を皮肉たっぷりに再定義し、それをブラックジョークと共に料理するという企画そのものは、他の追随を許さない独創的なもので、その世界観は北野監督にしか思い描けないものだと思いますが、いかんせんそのアイデアを具現化、映像化した際の品質が低くて、観るに堪えなかったというのが率直な感想です。

まとめ

北野武監督最新作「首」について、概要情報、見どころを押さえつつ、筆者個人には物足りなく感じた点を敢えて書いてみました。

この作品を観るか観ないか迷っている方に、より多角的な視点をご提供できていると幸いです。

この作品に対する☆評価ですが、

総合的おススメ度 2.0 グロが苦手な人には全くもって不向き
個人的推し 2.5 観ているのが辛かった・・・
企画 4.5 戦国時代を再定義!!
監督 3.0 もっと演出を練っても良かったのでは…
脚本 4.0 16世紀に関する新たな解体新書
演技 2.5 会話劇がシンドイ・・・
効果 3.5 邦画の限界?
こんな感じの☆にさせて貰いました

このような☆の評価にさせて貰いました。

テイク数が少ないのが北野映画の特徴と良く聞きますが、本作の会話劇に限っては、入念なリハーサルとテイク数の積み重ねによって、あうんの呼吸の会話劇を作り出しても良かったのでは?

余談ですが、映画館での本作の本編上映前に、リドリー・スコット監督の「ナポレオン」の予告が二度流れました。あの映像、特に戦闘シーンを見せられてしまうと、どうしても本作の合戦シーンがショボく見えてしまいました。制作陣にしてみれば外部要因ですが、これが邦画の限界か…とちょっと思ってしまいました。

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