この記事でご紹介する「マディソン郡の橋」は、1995年公開の恋愛映画。主演のクリント・イーストウッド(撮影時64歳)とメリル・ストリープ(同45歳)が、大人の揺れる恋心を見事に演じ切って、日本を含め世界中で大ヒットした作品。
この映画を観るか迷っている方は、後でご提案する ”ジャッジタイム” までお試し視聴する手もあります。これは映画序盤の、作品の世界観と展開が ”見えてくる” 最短のタイミングのことで、作品が気に入らなかった場合に視聴を離脱する目安タイムです。
もし、この映画が気に入らなかった場合でも、このジャッジタイムで観るのを止めちゃえば時間の損切りができます。タイパ向上のための保険みたいなものです。
この映画を初めて観る方のことも考えて、ネタバレなし で、作品の特徴、あらすじ(ジャッジタイムまでに限定)、見どころを書いて行きます。この映画の予習情報だとお考えください。
この映画を観るかどうか迷っている人、観る前に見どころ情報をチェックしておきたい人 のことも考え、ネタバレしないように配慮しています。
主演・監督・製作を務めたクリント・イーストウッドが、1992年に発売されベストセラーになった同名小説を、大胆に、そして繊細に映画化。メリル・ストリープ扮する平凡な主婦が、突然訪れた純愛と、愛する家族への責任との間で揺れる大人の女性の心情を丁寧に演じたことで、世界中のファンの共感を得ることに成功。
撮影地、原作との違い等を含めたこの映画の魅力を一緒に予習してみませんか?
ジャッジタイム (ネタバレなし)
この映画を観続けるか、見限るかを判断するジャッジタイムですが、
- 上映開始から30分50秒のタイミングをご提案します。
判断までの時間が少し長めなような気もしますが、ここまでご覧になってから好き嫌いを判断する方が、正しいジャッジになるように思います。主人公の2人がどのような経緯で出会うのかが見えますし、何より、その雰囲気を知るにはここまでの時間を必要とします。
概要 (ネタバレなし)
この作品の位置づけ
「マディソン郡の橋」(原題:The Bridges of Madison County) は、1995年の恋愛映画。1992年にアメリカで発表された、ロバート・ジェームズ・ウォーラーによる同名ベストセラー小説の映画化作品。
アイオワ州の片田舎で、夫と2人の子供と暮らしていた中年の主婦が、家族が出掛けている留守中に、ふとしたキッカケで出会った男性と生涯の恋をしてしまうという物語。
このプロットだけを聞くと、退屈な日々で欲求不満な女性が、思わず不倫に走ったストーリーのように聞こえていまうが、本作出演時には既に2度のオスカー受賞を果たしていた名女優メリル・ストリープが、この主婦の心情を丁寧に演じて切ったことで、ある日突然訪れた純愛と、家族に対する責任の間で、葛藤する女性の内面的な物語として完成している。
撮影時45歳であったメリル・ストリープは、この11年前にも「恋に落ちて」(原題:Falling In Love、1984年公開、ロバーロ・デ・ニーロと共演)でも不倫に走る主婦を演じているが、「恋に落ちて」とは全く異なる、静かな恋愛模様をこの「マディソン郡の橋」では見せている。
クリント・イーストウッドによる監督
この作品は、スティーブン・スピルバーグ率いるアンブリン・エンターテインメント社によって制作されている。同社が出版前に既にロバート・ジェームズ・ウォーラーから映画化権を購入していたことから、当初はスピルバーグ主導で制作が進められていた。
原作小説を大胆に脚色したリチャード・ラグラヴェネーズ版の脚本を、スピルバーグと、主演に内定していたクリント・イーストウッドが非常に気に入り、イーストウッドが相手役にメリル・ストリープを推薦していたという背景もあり、本作映画化に明確なビジョンを持っていると判断されたイーストウッドが、紆余曲折を経て監督も引き受けることになった。
本作は、撮影時64歳だったクリント・イーストウッドにとって19作目の監督作品であるが、この直前の2つの監督作、「許されざる者」(原題:Unforgiven、1992年) と「パーフェクト・ワールド」(原題:A Perfect World、1993年) が、非常に高い評価を受けていた時期で、監督として最盛期に入ったタイミングだったのではないだろうか?
商業的成功
本作の上映時間は134分。ストーリーに比してやや長めに感じるかも知れない。製作費は2千2百万ドルで、世界興行収入は1億8千2百万ドルを売り上げたとされる。実に8.27倍のリターンである。それだけ、世界中の老若男女から広く共感を得たということだと思う。
撮影地
劇中で、メリル・ストリープ扮するフランチェスカと、クリント・イーストウッド扮するロバートが出会う Covered Bridge (被覆橋) は、アイオワ州のマディソン郡のウィンターセットに実在する、Roseman Covered Bridge (ローズマン橋) という名の橋である。
この橋は、1883年に建設され、1976年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されたのだが、劇中では1965年にロバートがこの橋の写真を撮りに訪れ、フランチェスカと出会うことになる。
想像に難くないが、今ではすっかり観光名所である。
あらすじ (30分50秒の時点まで)
1989年の冬。アイオワ州の片田舎の農場に、兄マイケル(ヴィクター・スレザック)と妹キャロリン(アニー・コーリー)は帰郷した。二人の母親フランチェスカ・ジョンソン(メリル・ストリープ)が亡くなったからだ。
二人の父リチャード(ジム・ヘイニー)は、10年前の1979年に既に他界していたので、兄妹は二人で母の葬儀を挙げて埋葬し、遺品の整理を行うつもりでいた。
ところが、母フランチェスカ(メリル・ストリープ)の弁護士から受け取った遺言状には、”自身を火葬にして、遺灰を近所のローズマン・ブリッジから撒いて欲しい” と明確に記されていた。
母のこの遺志は、家族の宗派の習わしにもそぐわないし、父が生前に買っておいた墓地に父と一緒に永眠すると思い込んでいた兄妹は、母の強い遺志表示に耳を疑うばかりであった。
弁護士から渡された遺品の中には、見慣れぬ小さな鍵もあり、それを使って家の中に大切に保管されていた大きな木箱を開けると、どうやらそれは母の宝物箱であり、見慣れぬ品々と一緒に、母から自分達二人に宛てられた手紙もあった。
その手紙には、木箱に一緒に収めれた三冊の日記を読めば、何故ローズマン・ブリッジから遺灰を撒いて欲しいのかの理由が理解できるはずだと記されており、さらに、どうやら母は1965年の秋、父と兄妹が家を留守にした数日間の間に、ロバート・キンケイド(クリント・イーストウッド)という写真家の男性と秘密の恋に落ちていたことが示唆されていた。
兄妹、特に長男として母に愛されて育ったマイケルは、愛する母が父以外の男性と恋に落ちていたという事実が受け入れられず、この衝撃の告白に年甲斐もなく狼狽え、そして憤る。
二人が日記を読み始め、当時を回想すると、映画の場面は、その1965年の秋へと移って行く。
1965年の、まだ日中は気温の高い秋の日、農場で育てた子牛を隣の州で行われる品評会に出品するために、父リチャード(ジム・ヘイニー)、息子マイケル(クリストファー・クルーン)、娘キャロリン(サラ・キャスリン・シュミット)は、丸々4日間家を留守にすることになった。
留守を預かる母のフランチェスカ(メリル・ストリープ)は、リチャードと結婚するためにアメリカに渡ってきたイタリア移民で、農場で日々繰り返される家族の世話にいささかウンザリしており、この束の間の一人の時間をのんびりと満喫しようと心に決めていた。
家族が出掛けた翌日、すなわちお一人様の初日。農場に一台のピックアップ・トラックが入って来る。そこには一人の男性ロバート・キンケイド(クリント・イーストウッド)が乗っており、自分はナショナルジオグラフィックのカメラマンで、ローズマン・ブリッジの写真を撮りに来たのだが道に迷ったと言うのだ。
2マイルほど離れたローズマン・ブリッジへの道順を要領よく説明できなかったフランチェスカは、代わりにロバートと同乗してローズマン・ブリッジまで案内すると申し出る。遠慮しながらもこの申し出を受けたロバートは、ローズマン・ブリッジへとトラックを走らせる。
橋に着くとロバートは、ここから数日間掛けて行う撮影の下見の仮撮影を始める。その様子を物珍しく見物するフランチェスカ。徐々に打ち解け始めていた2人は、その日の仮撮影が終わると、冗談を言って笑い合ったりする。ロバートに興味を抱いたフランチェスカは、自宅でアイスティーでも飲まないかとロバートを誘う。これを快諾するロバート。
果たして、この後二人の関係はどうなって行くのだろうか…?
見どころ (ネタバレなし)
この映画の見どころを、ネタバレなしで3つの観点に絞って述べてみたいと思います。皆さんが、この映画をより味わい深く鑑賞するための予習情報になっていると幸いです。
フランチェスカの視点と兄妹の視点
この物語は、有体に言えば中年妻の不倫の物語です。更に物凄く意地悪な表現をすると、夫と子供たちが留守の間に、自宅に男を連れ込んだ主婦の話です。よって、このプロットだけに着目してしまうと嫌悪感だけを募らせる方もいらっしゃると思います。
しかし、既に述べたように、本作は全世界で1億8千万ドル以上売り上げた大ヒット作であるというゆるぎない事実があり、これはそれだけ世界中の人々から支持された紛れもない証左です。
ではそれは、なぜ起きたのでしょうか?
その最大の秘密が、フランチェスカの視点と兄妹の視点との二重構造だと思います。
フランチェスカの視点
1965年秋の、フランチェスカ(メリル・ストリープ)とロバート(クリント・イーストウッド)の恋の行方は、徹頭徹尾フランチェスカの主観的視点で描かれて行きます。
彼女にとって、これまでの人生で出会ったことのないタイプの男性であるロバート・キンケイド(クリント・イーストウッド)からにじみ出る、世界中を旅した経験による奥行、彼女にも自分自身に対しても正直であろうとする実直な性格、そしてそっと自分に示してくれる温かな敬意。
ある日突然目の前に現れた、そんな人生の ”特異点” への想いが、徹底してフランチェスカの主観で描写されて行きます。妻として母として確立して来た自分像が、そんなロバートとの出会いによってあっという間に崩れ去って行く様子を、フランチェスカの心情を辿る形で描かれるのです。
これだけでも十分威力があるのですが、依然としてその感情の渦に飲み込まれることに抵抗感を覚えるであろう観客層にも向けて、もう一つの装置を準備しているのがこの映画の凄いところで、それが兄妹の視点です。
兄妹の視点
上述の”あらすじ”をご覧になると分かるように、この映画は、1989年に母の遺品を整理をする兄妹(故人の長男と長女)が、母の秘密の日記を読み進めることで、1965年の回想シーンへ飛んでいくという構成が取られています。
実はこの後映画は、再三再四、時を1989年に戻し、読み進めた母の日記の内容に対する感想を、兄と妹が都度都度述べるシーケンスが挿入されていきます。兄妹は両者とも既婚で、それぞれの配偶者との生活に関して、多くの結婚生活がそうであるように、それなりの幸せと不満とを覚えている様子が、さりげなく織り込まれて行きます。
こういう周辺的な描写が、兄妹を世間の既婚者男女の目線と仕立て上げつつ、同じ主婦として母の心情に当初から一定の理解を示す娘と、聖母のように愛していた母に男が居たことを生理的に受け付けられない息子との対比が、この映画の客観性として要所要所で付加されていきます。
この映画を初見で観て戸惑う我々を置き去りにしないために、「主婦が不倫したなんて聞いて、いきなり受け入れられない!」という代弁者として兄妹が準備されている訳です。
例えるならば、徹底した当事者の主観が描かれる情緒的な絵と、その周りを囲む額縁として、その絵を客観視する男女の感慨が精緻な模様を形作り、この両者が合わさって一つの展示絵画を完成させるような恰好になっています。
絵だけだと生々し過ぎて直視できないけど、額縁があるから冷静に近付くことができる。そしてこの額縁が、この不倫物語の水先案内人になって、世の多くの人の共感を得た(得やすくなった)んだと思います。
原作小説との違い
実は、物語を徹底してフランチェスカの視点で描く点と、フランチェスカと兄妹を含む家族との関係性をより丁寧に描くという点とが、原作小説と映画脚本の大きな違いであり、この大きな軌道修正が、映画の大ヒットにつながったのではないでしょうか。
実は密室劇
映画を観進めて行くとお気づきになると思いますが、1965年のフランチェスカとロバートとの物語は、車の車内とフランチェスカの家の中のシーンが非常に多いです。もちろん、2人が出会ったローズマン・ブリッジや、街の様子、写真撮影で訪れた他の橋のシーンも出てきますが、主人公2人のやりとりは車内か屋内が大半という格好になります。
それもそのはずで、2人は密会している訳なので、人目に付かない場所となると、自ずと選択肢は絞られる訳です。それを踏まえて、ここでお伝えしたいのは、その撮影の仕方です。
画面構成に目を配ると、2人の様子を客体視するような”引き”や俯瞰のショットは皆無で、常に寄りのカットか、表情を詳細に切り取るアップのショットで、フランチェスカとロバートの心情を描いて行っています。
この密室劇的アプローチが、フランチェスカの心情に常時寄り添い、そしてアイオワの田舎の農家に閉じ込められている閉塞感を醸成し、更に、突如降って湧いた情熱的な恋の渦中にいる当事者としての主体性を強調してきます。この臨場感を楽しめるかどうかが、この映画を好きになれるかどうかの分水嶺だと思います。
主人公2人の演技
クリント・イーストウッドとメリル・ストリープの演技が素晴らしいです。筆者のような素人が言うまでもないのですが、脚本に対する理解力、役作り、演技、そして存在感。
クリント・イーストウッドは、原作小説ではロマンチストとしてややデフォルメされていたキャラクターであったロバート・キンケイドを、より血肉の通った現実的な人物像として変遷させています。マッチョで無骨すぎるわけでもなく、繊細すぎるわけでもなく、自由奔放なわけでもなく、全て相手の言いなりというわけでもなく、無口でもなく、お喋りでもなく、かっこよすぎる訳でもなく、中年オジサンという感じでもなく。
この見事なバランス感覚が、フランチェスカとロバートの心の交流の説得力に繋がっているような気がします。単に身体を求めあった訳ではないのよと・・・ これ以上は申しません、ご自身の目と耳でお確かめください。
一方のメリル・ストリープは、やはりイタリア移民の中年主婦フランチェスカ・ジョンソンを見事に演じています。決してとんでもなく美人という訳でもないんだけど、とにかくチャーミングなんです!可愛いんです!少女の面影すら感じます。
だから、ロバートからの電話に心躍らせてしまう姿や、”少女の時に憧れていた将来の自分像” と現実の自分との差分に気付いて戸惑う姿や、家族とロバートへの想いの間で葛藤する姿や・・・
過ちや気の迷いや一夜の恋ではなく、間違いなく純愛。でも、それだけで家族を捨てる理由になり得るのか?永遠の愛を定義づけるものとは何なのか?
3つの観点で、この映画の見どころを述べてみました。
まとめ
いかがでしたか?
決して不倫を推奨も肯定もしませんが、誰かと誰かがこんな風に出会うことってあるよねという純粋な意図で、この映画ご覧になってみるのも良いんじゃないでしょうか?改めてそんな風に思います。
この作品に対する☆評価ですが、
総合的おススメ度 | 4.0 | 一度は観てみても損はないと思う |
個人的推し | 4.5 | ハマると超泣けます… |
企画 | 4.0 | 当初はどんなコンセプトだったんだろう? |
監督 | 4.5 | 結局凄いのは監督イーストウッド |
脚本 | 4.5 | ここまで昇華させた手腕よ! |
演技 | 4.5 | 主人公の2人の存在感 |
効果 | 4.0 | 二人の半径5m への没入感が凄い |
このような☆の評価にさせて貰いました。
映画ファンなら、一度は通して観てみても良い作品だと思います。単なる不倫物語が、ここまで昇華されるのか!と。
脚本・監督・演技・そして各種効果の粋を結集したからだと思います。見初めてみて、受け入れられたら、凄く泣けてきちゃうと思うんですよね。
今回25年ぶりぐらいに観てみて、凄く胸に刺さる物がありました。中高年の方がやっぱり共感できるのかな?