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バック・トゥ・ザ・フューチャー三部作で学ぶ産業革命の影響とアメリカ社会の発展(ネタバレあり)

この記事は、20世紀を代表する大人気SF映画シリーズ、”バック・トゥ・ザ・フューチャー三部作”を観て、【産業革命の歴史】と20世紀の【アメリカ社会の成立】を楽しく勉強しよう!という企画である。

当Webサイトは普段、おススメしたい映画の見どころを、ネタバレなしでご紹介することを旨としている。

バック・トゥ・ザ・フューチャー三部作についても、産業革命の歴史と照らし合わせると、この映画はクリアに理解できるよ! という記事は既に三作分書いた(以下参照)。なので、今度は逆方向に志向し、映画を通して歴史の勉強をする企画にチャレンジしてみたいと思います。

この記事を読むと、1840年代~1980年代の期間に、映画では直接描写されていない社会背景も含めて、【産業革命の影響】と【アメリカ社会の発展】を速習することができます。

このテーマでのレポート提出を課せられた大学生は、このページをコピぺして提出しちゃってください。それも面倒臭かったら、指導教員にURLをLINEで送って「これ読め!」って言っちゃってください(笑)

目次

1840年代~1890年代:西部開拓時代と第1次産業革命の影響

西方へと向かう西部開拓時代

アメリカ合衆国では、1840年代から1890年代にかけて、未開の地であった西部地域を急速に開拓した歴史があります。これを西部開拓時代と呼びます。この時代は、カリフォルニア・ゴールドラッシュ(1848年~1855年)という金鉱発掘に沸いたという側面もあるものの、そもそもの根っこには「マニフェスト・デスティニー(明白な運命)」と呼ばれる、”アメリカ人は自分たちの使命として大陸横断を成し遂げるべき”という基本的価値観がありました。

これに伴い、鉄道網の拡張や土地の入植が西方へ向けて活発化し、多くの人々が西部へ移住することになります。当初は、家畜飼育や農業の発展が経済成長を牽引し、各地に数多くの町が成立していきます。

第1次産業革命の影響

これらを社会基盤として支えたのは第1次産業革命による発明品です。第1次産業革命とは、18世紀後半から19世紀にかけてイギリスを中心に起きた生産技術の革新のことですが、この恩恵は時を経てアメリカにももたらされます。具体的には、蒸気機関の活用と生産手段の効率化、そして、それらに伴う農業から工業への転換です。

アメリカでは、第1次産業革命が、特に綿花産業と鉄道網の拡大を後押しすることになります。

1869年に最初の大陸横断鉄道が開通します。これは、ネブラスカ州オマハから、カリフォルニア州サクラメントまでを繋ぐ鉄道で、ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道が、ユタ州のプロモントリー・ポイントで繋がることで実現されました。1869年5月10日のことです。

1856年の時点で既にイギリスで発明されていたベッセマー法という鋼鉄生産技術が、鋼鉄の強度・耐久性を各段に高めました。この技術が1870年代になると広く普及し、大量生産されるようになった強度の高い鋼鉄が、線路や橋梁等に使われ、鉄道路線の延伸を早めました。こうして鉄道網が大陸を西へ西へ向けて、急速に発達して行くことになります。

南部を中心に栽培されていた綿花は、機械化された工場で衣料品に効率良く加工され、それら商品が鉄道により一度に大量に各地の消費地に運搬されて行く。こうして、アメリカ社会は、生産、加工、運搬、販売、消費の流れを、一気に大掛かりな物へと変化させて行きます。

今日のアメリカ社会の礎

1890年代に入ると、西部開拓が一応の完成を見せ、西部開拓時代と呼ばれた時代は終焉を迎えます。しかし、19世紀後半のこの時代がアメリカの社会構造や生活の価値観を変えたことは間違いありません。

上述の鉄道の発展は人々の移動の概念を変え、自動車という20世紀の大発明が浸透する先鞭となりました。工業の発達や流通経路の拡大は、工業における労働需要の増大、ひいては工業労働者による消費の拡大、そして居住地域の流動性を生み、結果として町の都市化を推し進めました。またこの際に、仕事を求め多くの移民がアメリカに流入したこともあり、都市部では多様な文化が融合するアメリカらしいコミュニティが作られ始めたのもこの時期でした。

これらの変化は、国外目線では、アメリカをヨーロッパ諸国と肩を並べる工業大国に押し上げ、世界経済に大きな影響あたえる強国に成長させました。国内目線では、文化や価値観が多様化し、恒久的な経済成長と多文化社会の礎を築くことになりました。

Part 3 で描かれる1885年

ここまで述べた歴史的背景を考慮すると、1840年代~1890年代に起きた西部開拓時代と第一次産業革命の影響は、アメリカの社会、経済、文化に大きな変化が起こった重要な時期であることがわかります。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー Part 3」で描写される1885年のヒルバレーは、まさにこうした真っ只中の、まさにその西部の町(カリフォルニア州郊外)を描いていたことになります。

移民入植者であるマクフライ家の先祖。東方からヒルバレーへと続く蒸気機関車の線路。第一次産業(畜産業)、第二次産業(精肉業、肥料提供業、建築業)のみならず、貸し馬車屋、風呂屋、葬儀屋、酒場といった第三次産業たるサービス業が随所に散見されます。

Western Union や Wells Fargo & Co. が実名で描写され、通信業、郵政業、金融業が、既にこの西部の町ヒルバレーでも成立していることが伺えます。保安官事務所に貼られた「絞首刑立ち合いの為不在」という通知から、警察と司法の機能が、この町にも常設されていることが分かります。

つまり、一見すると閑散とした集落にしか見えない1885年のヒルバレーも、都市機能がちゃんと成立しているんだぞ!という描写の意図を感じます。

ヒルバレー・フェスティバルでは、マクフライ家のような移民も含めて、コミュニティの一員として一緒にお祭りを楽しむ描写がなされ、単に都市とその近郊に住む居住者同志というだけでなく、多様な者で構成されるコミュニティとしての意識を感じます。上記で述べた19世紀後半の社会背景を、バッチリと1885年のヒルバレーは絵として具現化していた訳です。

1890年代~1920年代:第2次産業革命の影響と初期のハイウェイ建設

自動車の発明

バック・トゥ・ザ・フューチャー三部作では、まったく言及されることはありませんでしが、実は1885年という年は、人類の歴史において非常に重要な年です。

というのも、この1885年に、ドイツのカール・ベンツは、世界初のガソリンエンジンを搭載した3輪自動車「ベンツ・パテント・モーターワーゲン」を発明し、翌年の1886年に特許を取得しました。また、同じくドイツのゴットリープ・ダイムラーは、1886年に4輪自動車を開発しました。彼の自動車は、高速回転型のガソリンエンジンを搭載し、後の自動車開発に大きな影響を与えました。

要は、この1885年と翌1886年に、ドイツでは既に自動車が産声を上げていたのです。西部開拓時代に引き続く1890年代~1920年代は、この後述べるように、第2次産業革命の影響を受けた時代であり、世界に自動車が登場し、初期のハイウェイが建設され、これらにより、アメリカの社会と経済が更に大きく変化して行きます。

第2次産業革命の影響

第2次産業革命は、電気や内燃機関の発明、石油化学の発展、鉄鋼業の進歩など、新たな技術革新が生まれたのがその特徴です。これを一つの流れとして捉えると、石油化学の発展が火力発電所の発電量を劇的に高め、この電力の安定供給が工場のオートメーション化を促進し、鉄鋼業の進歩と合わさって、自動車を中心とした(重)工業の発展に繋がりました。

こうした産業構造の変化は、アメリカの工業の生産性を世界的な競争力を持つまでに高めました。労働者目線でも、これらの変化は労働の生産性を高めたので、民間需要が拡大され経済成長を促しました。こうした中、フォード社が1908年に開発・販売したモデルTフォードは、徹底した工場のオートメーション化により販売価格が抑えられ、遂に自動車が一般大衆の手にも届く商品となりました。

こうして自動車は、個人の移動手段として普及し始め、これは徐々に、都市間の交通需要へと繋がって行きます。アメリカ連邦政府は、この要求に応えるため、1916年に連邦道路法(Federal Aid Road Act)を制定し、連邦道路局(後の連邦ハイウェイ局)を設立しました。

連邦道路法は、州政府による道路建設・改良プロジェクトを、連邦政府側からも資金援助すること、同時に道路建設の基準や規格を統一することを目的としたものです。連邦道路局は、その資金配分や調整、指導を行いました。これにより、仮に州が異なっても、統一された規格を持つ均質な道路網が国中で、同時並行的に建設されて行くことになります。

アメリカ各地で起きた、自動車の普及と、この交通インフラの整備は、ほんの少し前まで馬車や徒歩で未舗装の道を移動していた人々の、移動に対する概念を一変させました。19世紀末に起きた鉄道網の発達による移動概念の変化は、20世紀には自動車普及による移動概念の変化へと置き換わった訳です。

特に、1926年に連邦道路法に基づき設定された、シカゴからロサンゼルスまでの約2,448マイル(約3,940キロメートル)を結ぶルート66は、象徴的な意味を持つようになりました。ルート66は、東西の主要都市を結んでいるため、「メインストリート・オブ・アメリカ」や「マザー・ロード」とも呼ばれ、20世紀アメリカの文化・経済が東西で交流したシンボルとなったのです。

一方で、石炭から石油への転換は、一般家庭への電力供給も安定化させ、その結果、家庭用電化製品が次々と登場して、アメリカの家庭生活に少しずつ溶け込んで行きました。電話、電気冷蔵庫、洗濯機、ラジオなどが登場したのはこの時期です。これらの新しい家電製品は、家庭の労働を軽減し、生活様式を一変させたのです。

生活の質向上は、更なる需要を促して、20世紀型の消費者文化の成立へと繋がって行きました。広告やマスメディアが更なる需要を喚起し、その新たな需要が新たな販売機会を生み、雇用を生む。こうした、アメリカの生活様式や価値観の変化は、都市部を中心に就労機会を増大させ、地方居住者や海外からの移民の都市部への流入を加速させました。

20世紀のアメリカの成立

総じて、1890年代から1920年代はアメリカの発展において重要な時期でした。第2次産業革命と初期のハイウェイ建設は、アメリカの経済成長を促進し、社会の構造を変える要因となりました。この時代の変化は、20世紀のアメリカの発展や世界における経済大国としての地位確立に寄与し、現代のアメリカ社会の基盤を形成することになりました。

1930年代~1950年代前半:家電の普及、自動車文化の隆盛、サブアーバン化

この時代のアメリカ社会は、それ以前の時代、すなわち、1920年代までの延長線上にある変化と、転換点を迎えた変化とが混在します。

まず延長線上にある変化としては、電話、冷蔵庫、洗濯機、ラジオ、それに加えてテレビなど、電化製品が更に一般家庭に普及して行きました。特にテレビは、映像と共に情報を伝達できるため、広告やマスメディアの更なる発達を促しました。

また、自動車の一般家庭への普及も更に進みました。この需要増大に伴い、ゼネラルモーターズ(GM)、フォード・モーター社、クライスラーのビッグ3を有するアメリカ合衆国は、世界有数の自動車生産国となりました。

一方で、転換点となったのは、この自動車文化の隆盛です。当初は単なる移動の道具であった自動車が、生活の必需品として一般家庭に完全に溶け込み、徐々に自動車文化(カーカルチャー)を形成して行きます。例えば、ドライブインシアター、ドライブインレストラン、モーテルなど、自動車での来場を前提とした娯楽やサービスが、ビジネスとして成立し始めます。

これに伴い町が拡大していきます。サブアーバン化(生活圏の郊外化)です。それまでは町や都市の中心部に住んでいないと、何かと生活が不便であったものが、自動車が家庭にあることで、郊外からの通勤・通学も可能となりました。多少中心部から離れていても、より大きな住宅に住む方が生活の質が高まるので、町の居住地域は放射状に急拡大して行きます。

Part 1、Part 2 で描かれる1955年

Part 1、Part 2 で描かれる1955年のヒルバレーが、まさにこの時期に該当します。自動車はどの家庭にも行き渡り、町中や道路を当たり前のように走っています。高校生たちが、自動車で通学する姿も珍しくありません。

マーティの母ロレイン(リー・トンプソン)の実家や、ドク・ブラウンの自宅は、電気が煌々と付き、テレビもあって、とても豊かな生活を送っているように見えます。

一方で、後のマクフライ家が居を構える”リヨン・エステート(Lyon Estate)”という造成宅地が、ヒルバレーから2マイル(3.2km)も離れた郊外に作られようとしています。サブアーバン化が描写されているのが見て取れます。

1950年代後半~1980年代:IHS の整備とサブアーバン化の加速

IHS (インターステート・ハイウェイ・システム)

この時期は、IHS (インターステート・ハイウェイシステム) の整備がアメリカ社会に大きな変化をもたらした時代です。インターステート・ハイウェイ・システム (Interstate Highway System) とは、そのまま訳すと州間高速道路システムとなります。これは1956年に連邦政府が制定した道路整備に関する計画で、その後20年ほど掛けて、全米を結ぶ高速道路ネットワークを整備しました。

この高速道路網は、都市間の交通を飛躍的に向上させ、物流や観光、労働市場の拡大に寄与しましたが、1916年に制定された連邦道路法と混同しやすいので、その違いを整理しておくと、

  1. 目的と時期:
    • 連邦道路法は、1916年に制定された法律で、主に地域間を結ぶ道路の整備と改善を目的としていました。これにより、アメリカ全土で初めて連邦政府が道路建設に関与することになりました。
    • インターステート・ハイウェイ・システムは、1956年に制定された連邦政府の道路整備計画で、全国規模の高速道路網を構築することを目的としています。
  2. 資金調達:
    • 連邦道路法では、連邦政府と州政府が道路建設費用を共同で負担しました。
    • インターステート・ハイウェイ・システムは、連邦政府が主要な資金提供者であり、道路建設費用の大部分を連邦政府が負担します。
  3. 規模と範囲:
    • 連邦道路法による道路整備は、主に既存の道路の改善や、新たな地域間道路の建設に焦点が当てられていました。
    • インターステート・ハイウェイ・システムは、全米をカバーする高速道路網の構築を目指し、より大規模なプロジェクトです。
  4. 影響:
    • 連邦道路法による道路整備は、自動車の普及と交通インフラの整備を加速させました。
    • インターステート・ハイウェイ・システムは、国内の貨物輸送や旅行の効率化、経済発展、都市計画の変化、サブアーバン化など、アメリカ社会に広範な影響を与えました。

となります。

インターステート・ハイウェイ・システムの功罪

IHS により、州をまたがる高速道路を含めた、ハイウェイの大規模整備が行われました。これに伴い、都市から郊外への人口移動が加速しました。このサブアーバン化は、住宅居住地域が都市周辺に放射状に拡大したというレベルの話ではなく、郊外地域への完全なる人口移動です。

この道路網が、郊外地域へのアクセスを更に容易なものにしたため、より大規模な(=手付かずの広大な敷地を利用した)郊外型住宅開発を加速し、家族向けの戸建て住宅を増加させました。これに伴い、都市部からは独立した大型ショッピングモールやオフィスパークの建設が進み、郊外独立型の商業基盤、雇用基盤が成立することに繋がりました。

この一連の流れは自動車の利便性をさらに高め、車中心の生活スタイルが一層定着させました。しかしこれは、公共交通機関への投資を減少させ、車を持たない人々の移動手段が限られることと裏返しでした。こうして、アメリカ社会の自動車依存度が高まる結果となりました。

この時代の都市から郊外への移住は、都市中心部の過疎化やインフラの老朽化、そして犯罪率の上昇といった問題を引き起こしました。有体に言うと、金持ちは郊外に大きな邸宅を構え、貧乏人は都市部のスラムに住むという具合で、この構図が世代をまたがって固定化されて行きました。

この現象は同時に、郊外の自然環境の破壊やスプロール現象(都市が無秩序に広がる現象)を招いたことから、持続可能な都市計画への関心が高まるきっかけとなりました。

総じて、1950年代後半から1980年代は、インターステート・ハイウェイ・システムの整備が、都市から郊外への人口移動を加速させ、アメリカ社会の生活様式や都市・郊外のバランスに大きな影響を与えた時代でした。

Part 1 で描かれる1955年と1985年

Part 1 で描かれる、1955年のヒルバレーの時計台前の広場には、よく見てみると、”Welcome to Hill Valley” という看板に幾つもロゴが貼られています(上映開始から36分40秒近辺です)。その幾つかを取り上げると、

  • Lions Club
    • 1917年に設立された国際的な奉仕団体
  • Rotary Club
    • 1905年に設立された国際的な奉仕団体
  • Kiwanis Club
    • 1915年に設立された国際的な奉仕団体
  • YMCA
    • 1844年にイギリスのロンドンで創設された国際的な非営利団体

のロゴマークです。これらはどれもコミュニティ活動を行う慈善団体ばかりです。つまり、1955年のヒルバレーには、それだけの”地域団結力”が存在していたことが描かれていた訳です。

ところが、1985年のヒルバレーにはそのような描写は無く、かつホームレスがこの広場のベンチで寝ている姿まで登場します。どこまでサブアーバン化を意識した設定なのかは分かりませんが、少なくともコミュニティが存続していないことだけは分かります。

まとめ

いかがでしたか?

ここまで、1840年代から1980年代までの【産業革命の影響】と【アメリカ社会の発展】を、4つの時代に分けて説明してきました。そして、それがバック・トゥ・ザ・フューチャー三部作のどのシーンで読み取れるかも付記しました。

なるべく簡潔に整理したつもりですが、皆さんの理解の促進に繋がっていると嬉しいです。

つくづくバック・トゥ・ザ・フューチャーという映画シリーズが、それぞれの時代の世相を巧みに描写していた作品だったのかを再確認しました。

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