この記事では、映画シリーズにおいて、2作目以降の続編が1作目の品質・評価を超えた作品を5つ(映画シリーズを5つ)を選定し、加えてその成功要因について考えてみたいと思います。
ここで述べていることは、あくまでも筆者の主観に他なりませんが、皆さんのこれからの視聴作品選びにおける、何がしかの気付きのようなものになれると嬉しいです。大げさに言えば、皆さんの映画ライフの充実のお手伝いを目論んでいます。
定説:続編は1作目を超えない
世間一般の定説として、映画の続編は1作目の質を超えないというものがありますね。
続編が興行成績で1作目を上回るということはあります。すなわち、続編が1作目の知名度により観客動員数を伸ばし、その結果より儲かる構図を作り上げて行くという現象は決して珍しくありません。
しかし、1作目が世の中に公開された時のインパクトだとか、トータルの完成度だとか、そう言った作品が持つ”質” の観点で、続編が1作目を上回るという状況は滅多に起きないと考えています。
「やっぱりなんだかんだ言って映画作品としては1作目が一番だよね!」という評価に、最終的には落ち着くのが常なんじゃないでしょうか。
例えば、タイムトラベルSF映画の金字塔「バック・トゥー・ザ・フューチャー・シリーズ」を例に取っても、2作目、3作目の登場に伴い、マーティとドクが時空を行き交うストーリーは加速し、三世紀に渡るマクフライ家のファミリー・ツリーは詳らかになって行く。そして、3作目で全ての伏線が回収され、物語は ”完結する” という納得感を私たちは得ることができました。
しかし、やはりあの1作目が登場した時に私たちに与えたインパクトを、2作目以降は超えたでしょうか?答えは No だと思うんですよね。
これはハリー・ポッター・シリーズしかり、ロッキー・シリーズしかり、アイアンマン・シリーズしかり。
例外的な映画シリーズ
ところが、物事には例外が付き物で、(筆者の完全なる個人的な見解ですが、)以下のシリーズは2作目が1作目よりも品質的に優れた作品に仕上がっていると思うんです。
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- リーサルウェポン・シリーズ
- バットマン・シリーズ(クリストファー・ノーラン監督版のダークナイト三部作)
- ハスラー・シリーズ
- ターミネーター・シリーズ
- ゴッドファーザー・シリーズ
先に当該シリーズをリストアップしちゃいましたが、これら5つのシリーズの、どの辺りが1作目を超えているのかは、次の章で掘り下げてみたいと思います。
※ これ以降の章は、ネタバレ満載の情報となりますので、ご注意ください。
「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」は、ここに入れるか入れないかを正直迷います・・・
続編が1作目の質を超えるパターン
上述した5つのシリーズをよぉーく目を凝らして眺めてみると、続編が1作目の質を超える成功法則が見えてきます。そして、その法則、すなわちパターンは、大きく分けて3つとなります。
それを今から一つずつ解説していきます。
パターン1:全く異なる主題の提示
このパターンに該当するのが、「リーサル・ウェポン2 / 炎の友情」(1989年) と「ダークナイト」(2008年) です。すなわち、続編(この両者の場合2作目)で、1作目とは明らかに異なる主題を提示することで1作目を凌駕するというパターンです。
リーサル・ウェポン2 / 炎の友情 (1989年)
「リーサル・ウェポン・シリーズ」は1987年に「リーサル・ウェポン」で産声を上げます。メル・ギブソン扮するマーティン・リッグスという若手刑事(30歳前後の設定と推定)は、学歴こそ無いが、10代の頃から陸軍特殊部隊で鍛え上げられ、実際にベトナム戦争にも従軍したという武闘派。
リッグス刑事は加えて、数年前に交通事故で愛妻を失って生きる気力を無くし、その反動で捜査時に自らの身を危険に晒すような暴挙を繰り返し、警察上層部も手を焼いている厄介者。しかも、特殊部隊上がりのため、肉弾戦、銃器、爆薬、遠方狙撃すべてに精通し、人を着実に仕留められることだけが唯一の誇りという”人間殺人兵器=Lethal Weapon” だ。
そんな自殺願望満載なヤバい刑事を鮮明に描写するために、50歳の誕生日を迎えたばかりで家族思いのアフリカ系アメリカ人刑事ロジャー・マータフ(ダニー・グローバー)を、上層部の意向で無理やりコンビを組まされる損な役回りとして登場させ、この心優しい中年オジサンの目線を通して、リッグスの”人間火薬庫” ぶりを強く印象付けるというのが、1作目のコンセプトであった。
ところが2年後の1989年に公開された2作目になると、リッグス刑事は、マータフやその家族の愛情に触れて、心の傷が一気に癒えます(← ココはツッコむのではなく、”マーティン良かったね!”と素直に喜びましょう)。そして、リッグス vs マータフの魂の衝突の構図は鳴りを潜め、2人は人種や年齢の壁を超えた完全なバディ(=相棒)となります。
その息の合ったコンビ芸を際立たせるために、この2作目では物語に様々な山場を作ったり、名優ジョー・ペシを第三者のオチャラケ・キャラとして登場させたりして、リーサル・ウェポン・シリーズを”バディ物”として磨き上げて行きます。邦題にはご丁寧に”炎の友情”という副題も付きました。
こうして、手が付けられない陰鬱な奴が暴れる一触即発猛獣観察系の作風は、いつの間にか相棒同士が、出自こそ違えど互いを信頼し、互いを全力でバックアップする(必要とあれば暴れまくる)という、ハートウォーミングかつ痛快なアクション・コメディとして脱皮し、大衆の支持を確かなものとします。
この辺りのシームレスな主題のすり替えが実に見事で、2作目の方が1作目より優れていると考える根拠です。
ダークナイト (2008年)
クリストファー・ノーラン監督が手掛けたバットマン・シリーズ(通称”ダークナイト三部作”)は、2005年公開の「バットマン ビギンズ」で産声を上げます。”ビギンズ”というタイトルが示唆するように、この1作目では、「いかにして”バットマン”が誕生したのか?」のいきさつが、前日譚というレベルで丁寧に描かれます。
注意深く聴いてください!1作目に前日譚をボリューム満点に練り込むなんて、通常では考えられないことですよね?だって、普通は1作目で主人公の活躍を存分に描き、その表の顔を十分に認知させた上で、2作目以降で”実はこういう経緯でヒーローになったのよ。人には言えない裏のストーリーもあるのよ”と、内緒話のように前日譚を描くというのが常套手段だと思います。
ところがノーラン監督の「バットマン ビギンズ」では、映画冒頭からタップリと時間を掛けて前日譚を描いた上で、覆面ヒーローになった動機付け、”バットマン”としての初陣、そして徐々に板に付いてくる活躍、最後にバットマンとゴッサム市警との関係性を定義するところまでで1作目を終えます。
そして問題の2作目。クリストファー・ノーラン監督は、2作目の「ダークナイト」(2008年) こそが描きたかった大本命なんじゃないか?という程、1作目とは異質な主題をこの続編にブッ込んできます。まるで「バットマン ビギンズ」は単なる前振りに過ぎなかったんじゃないかと言うぐらい、主題が飛躍します。
その主題とは、誕生以来何十年に渡ってゴッサム・シティの不動のヒーローとして親しまれてきた”バットマン”は、選挙で選ばれた公職でもなく、法的裏付けがある訳でもなく、街の市民が彼を支持しなくなった瞬間から、バットマンは正体も晒さない”卑怯者”ではないか?という、覆面ヒーロー懐疑論、もしくはその再検証だったのではないでしょうか?
そして、その存在意義の拠り所になる大衆の心を、懐疑論へと煽動するヴィランとしてヒース・レジャー扮する”ジョーカー”を登場させます。ジョーカーは、ゴッサム市民が本来心に持っているべき、正義を貫く信念や、仲間やヒーローを応援する良心を蝕むために、ありとあらゆる心理的な罠を仕掛けてきます。
こうしてヒーローとは何なのか?ヒーローがヒーローであり続けるための要件とは何なのか?を因数分解して見せ、真に高潔な心を持つ者は、その善行を誇示しないがために、名声を失うことだって起こり得る、”ダークナイト = Dark Knight = 暗黒の騎士”に朽ち果てることだってあり得ると、ノーラン監督は我々に問うてきます。
もはや1作目の前日譚なんて単なる前座に過ぎません。この辺りの計算され尽くした、逆算のシリーズ展開は流石天才ノーラン監督!でした。結果、このノーランのバットマン・シリーズは、”ダークナイト三部作 = Dark Knight Trilogy”と呼ばれるようになります。つまり、このヒーロー解体新書とでもいうべき2作目こそがシリーズを代表するタイトルとなる訳です。
パターン2:主役が逆転した立場で登場
このパターンに該当するのが、「ハスラー2」(1986年) と「ターミネーター2」(1991年) だと思います。すなわち、1作目にも登場した主役を、続編(この両者の場合2作目)では異なる立場で登場させる、もっとハッキリ言うと、逆転した立場で登場させる。これにより1作目とは真逆の視座からストーリーを作り上げ前作を凌駕するというパターンです。
ハスラー2(1986年)
1作目は「ハスラー」(1961年) 。この映画は一言で言うと、ポール・ニューマンがビリヤードの若き天才プレイヤー、エディ・フェルソンを演じ、15年間無敗の伝説のプレイヤー、”ミネソタ・ファッツ”と死闘を繰り広げるという物語。公開時ポール・ニューマンは36歳。
映画序盤では、自分の才能を信じて疑わず鼻高々だったエディは、勢いに任せてファッツに勝負を挑むものの破れ、己の心の弱さを知り挫折を味わう。恋人サラの支えもあり息を吹き返したエディだったが、今一つメジャーな存在になり切れない中で、やはり再度挫折を味わう。
サラの支えに加え、今度はパトロン、バートの支援も受け一皮むけるエディ。ところが、今度はバートの裏切りによって恋人サラを亡くす。この喪失を糧にエディは精神的な強さを身に着け、遂にはファッツとの勝負を制し、バートからも卒業する。
つまり、ポール・ニューマン扮するエディ・フェルソンが、若き衝動を抑えらない喧嘩屋的な存在から、一人前の大人の勝負師へと成長する姿こそが、この「ハスラー」で描かれた内容であった訳です。
一方25年後の「ハスラー2」(1986年) では、61歳のポール・ニューマンが演じるエディ・フェルソンは、既にビリヤードから足を洗っている。しかし、若き天才ビリヤード・プレイヤー、ヴィンセント(トム・クルーズ、公開時24歳)の腕前に、かつての自分の姿を重ね合わせ、彼を一流の”ハスラー”に育てるべく、勝負に関する全てを叩きこもうとする。
ところが、”ハスラー”としての駆け引きの妙を説くエディに対し、無軌道に強さを発露させるヴィンセント。そんな中、エディ自身も若いハスラーに完全にカモられ、再度挫折を味わう。そこからもう一度ビリヤード・プレイヤーとしての自分自身を鍛え直して行くエディ。
と言う訳で、かつて自身の才能だけを頼りに、大人とぶつかりながら代償を払い、成長を遂げたエディ・フェルソンが、続編では、若者を育てようとする指導者側の立場に回り、かつそこでも己の至らなさを痛感させられ、更なる高みを目指すというのが、1作目と2作目の対比となります。
このように、2作目が1作目の単なる続編でないことは一目瞭然だと思います。同じ俳優が同じキャラクターを演じているにも関わらず、立場を完全に逆転させて、真逆の視座から異なる世界観を描く。前作越えの「ハスラー2」の秀逸さが伝わると嬉しいです。
ターミネーター2(1991年)
ご存知「ターミネーター」(1984年) は、2029年という近未来ディストピアを下敷きにしています。20世紀末に起きた地球規模の核戦争勃発後、人類を殲滅しようとしている人工知能を具備した機械軍と、これに必死に抵抗する人類反乱軍。
事態の打開を図りたい機械軍は、通称「ターミネーター」と呼ばれる人間型アンドロイド ”T-800型” を2029年から1984年にタイムスリップさせ、人類反乱軍のカリスマ・リーダーの母親を殺害することで、このリーダー生誕の事実を世界から消滅させ、人類反乱軍の弱体化を企てる。
この表情一つ変えない冷酷無比なT-800型ターミネーターを演じたのが、アーノルド・シュワルツェネッガーです。肉弾戦、銃弾戦に一切怯むことなく、猛火もものとせず執拗にターゲットの命を狙う疲れ知らずの殺人兵器は、映画公開時に観る者に戦慄を与えました。
ところが7年後に公開された「ターミネーター2」(1991年) で、同じくT-800型ターミネーターを演じたアーノルド・シュワルツェネッガーでしたが、今度は1991年の世界で少年時代のカリスマ・リーダーを身を挺して守る、疲れ知らずの守護者となって登場します。
最新型ターミネーター・T-1000型に苦戦を強いられながらも、少年と母親とのチームワークを学習することで、T-1000型の猛攻を何とかしのぎ切り、遂には人間の感情を理解するまでに学習練度を高める。そして最期は自らを”ターミネイト”することで機械軍の歴史の幕引きを図る。
未来から現在に刺客が送り込まれて来るという同一のプロット、同じ俳優が同じキャラクター(=同じ型)を演じるという配役、これら高い類似性があるにも関わらず、主人公を殺人兵器から守護者に逆転させることで、こうも世界観が変わって見えるという事実を、この映画は観る者に証明して見せました。
アーノルド・シュワルツェネッガーが、機械と人間のギリギリの表情を熱演することで、シリーズは陰鬱なアクション映画だった1作目から脱却し、人間と機械は共存できるかも、あるいは運命は自ら切り開くもの、というメッセージ性も包含した一大巨編に仕上がりました。
一大メジャー作品として世界中から認知された2作目が、カルト的な人気を誇るB級作品であった1作目の、単なる延長線上にある続編ではないことは、皆さんも良くご存知だと思います。
パターン3:整合性の取れた2本分の映画を1本にブッ込む
このパターンに該当するのが、「ゴッドファーザー PARTⅡ」(1975年) だと思います。すなわち、1作目の前日譚と後日譚の、言うなれば2本分の映画を、巧みな編集でくっつけて1本の映画に仕立て上げ、続編として世に送り出す。こうして前作を凌駕するというパターンです。
ハッキリ言って他では真似できないので、パターンと言ってもこれに該当するのはこの金字塔だけです。
ゴッドファーザー PARTⅡ (1975年)
シリーズ1作目の「ゴッドファーザー」が公開されたのは1972年。ベストセラーとなったマリオ・プーツォの同名原作小説を、プーツォ本人とフランシス・フォード・コッポラが映画脚本化し、コッポラが監督して世に送り出したのが「ゴッドファーザー」(1972年) です。
1作目では、ニューヨーク5大ファミリーの筆頭格コルレオーネ・ファミリーを一代で築き上げたヴィトー・コルレオーネをマーロン・ブランドが演じました。ブランドは、世間や敵からは恐れられながらも、身内からは尊敬と愛情を持って親しまれた、古き良き時代の”ゴッドファーザー”を熱演します(ブロンドは、この演技でアカデミー主演男優賞を獲得)。
そして、このヴィトーからその地位を禅譲された一家の三男マイケル(アル・パチーノ)は、時代の要請に応じてコルレオーネ・ファミリーをより組織として先鋭化させ、本人も冷静沈着な新時代の”ゴッドファーザー”へと進化を遂げます。そして、先代が天寿を全うしたのを好機と捉え、他のファミリーの指導者を一気に暗殺し、利権を一手に掌握して1作目は幕を閉じます。
時代の移り変わりとともに、犯罪組織のドンに求められる資質も変化する様子を通して、”マフィア”、あるいは ”ファミリー” と呼ばれる犯罪組織の内情とそれを構成する人々を、叙情的に描いたのが1作目の「ゴッドファーザー」(1972年) だった訳です。
では3年後に公開された「ゴッドファーザー PARTⅡ」(1975年) では何が描かれたかと言うと、映画は更に叙情的な2つのストーリーを編集で行き来することで進行して行きます。これはもう叙情的という表現に収まり切らず、もはや叙情詩そのものです。
一つ目のストーリーは、先代ヴィトー・コルレオーネが、生まれ故郷のシチリアを少年時代に追われ、移民としてニューヨークに渡った経緯(いきさつ)。貧しいながらもリトル・イタリーで掴んだ妻子との真っ当な暮らし。まずはこうしたルーツを描くところから始まります。
しかし、そんなささやかな暮らしを、同胞のイタリア人を搾取して周るヤクザ者のファヌッチに侵害され、ヴィトーはこれに対抗するために、自らも犯罪に手を染めざるを得なくなり、遂にファヌッチを倒した後は、徐々に犯罪集団のリーダーとして頭角を現して行きます。
この青年時代のヴィトー・コルレオーネを若きロバート・デ・ニーロが熱演し、リトル・イタリーの街の人々に恐れられるのと共に、次第に敬愛の情も集めて行く様が情感豊かな映像と共に描写されて行きます(デ・ニーロはこの演技でアカデミー助演男優賞獲得)。
デ・ニーロの受賞により、同一キャラクターを別の俳優が演じて、両者ともオスカーを獲得した史上初めてのケースになったのと同時に、前作「ゴッドファーザー」(1972年) における偉大なるドン・ヴィトー・コルレオーネの成立の過程を、美しい映像と類まれな演技で説得力を持って描く、叙情的な前日譚がここに完成を見た訳です。
対するもう一つのストーリーは、2代目マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)のその後の日々です。
マイケルは、コルレオーネ・ファミリーのビジネスを更に先鋭化させ、表向きは合法企業としての看板を掲げ、巧妙に抱き込んだ政治家とのコネも活用しながら、この巨大なファミリー・ビジネスを巧みに経営して行きます。だからと言って他の犯罪組織が見逃がしてくれる筈もなく、マイケルは計算と武力を使い分ける、一部の隙も見せない冷徹な男に更に進化して行きます。
ところが、こうした一連の『家族を守るため』のストイックな所作が、結果として愛する兄、妹、そして妻をも遠ざける状況へと繋がり、人間不信にさえ陥る孤独な未来を招いていきます。
つまりは、家族のために『より強く』、『より賢く』なろうとすればするほど、その家族との『埋めがたい溝』を深めるという皮肉な後日譚が、やはり叙情的なトーンで描かれて行くわけです。
整理すると、「ゴッドファーザー PARTⅡ」(1975年) は、先代全盛の頃の家族みんなが笑顔で誇らしげに肩を並べていたあの美しい日々が、いかにして築かれたかの過去の道程と、その温かな日々からいかにして遠ざかってしまったかの未来の推移が、編集によって交互に行き来しながら対照的に紡がれて行く、映画2本分プラスアルファな作品なわけです。
この2作目が、イタリアン・マフィアの内情を叙情的に描いた1作目の、単なる続編でないこと、そしてその質において明らかに上回っていることがお解かりいただけたんではないでしょうか?
まとめ
続編が、1作目の質を超えちゃう類まれな映画シリーズについて考えてきました。
具体的には、その条件に該当する秀逸な映画シリーズ5つご紹介し、それらが3つのパターンに類型化できることを、根拠と共にご説明したつもりです。
この記事によって、皆さんの映画ライフが、より味わい深いものになると嬉しいです。